陸の明治ナショナリズム.

陸羯南(くがかつなん)の明治ナショナリズム「国民主義」における考察」    人見 勝太郎

 

(一)序文

 

陸羯南(くがかつなん)(本名・実)は、明治二十年代から三十年代にかけて、新聞『東京電報』及び『日本』に社長、主筆として社説を書き続けた、政論記者、ジャーナリストである。

羯南の唱えた「国民主義」は、内に国民的統一を、外に国家の独立を求め、両者の発展をはかることを目指すものであった。

羯南は国民全体の歴史、経済、風俗を通して、道徳性を強調しながら、厳しい政治批判を、社説として新聞に発表し続けた。

即ち、国民から距離を隔てた「思想家」としての羯南ではない、国民と密接に関わりあった「ジャーナリスト」としての羯南が、そこには存在するのである。

本論はこう言った観点から、羯南の明治ナショナリズム「国民主義」とは如何なるものであったか、輪郭線を明確にし、又見直すことで、現代日本のあり方を考察するものである。

 

 

(二)これまでの陸羯南研究と根拠資料

 

羯南は、雑誌『日本人』を主催した政教社メンバーの志賀重昴(一八六三―一九二七)、三宅雪嶺(一八六○―一九四五)らと並び、明治中期ナショナリズムを代表する存在として、評価されてきた。

政治学的分析・政治思想史的アプローチによる羯南の「軍事外交論」研究は、これまでも主に丸山真男、植手通有の両氏を筆頭に幾人かの研究者によって行われている。

思想家、ナショナリストとしての羯南が大きく評価されてきた所以である。

そのため羯南の理論(哲学)研究は進んだが、その反面、羯南関係の論文は、抽象的で難解な印象を与える傾向があるとも、言われている。

 

陸羯南関係の資料としては、みすず書房から整理された『陸羯南全集』(全十巻)が刊行されている。

全集には、『日本』の前身である新聞『東京電報』と、『日本』の社説が中心に収められている。

 

『東京電報』は、羯南を主筆兼社長として明治二十一年(一八八八)四月九日創刊された新聞である。

翌二十二年二月九日には廃刊され、続いて『日本』が前紙を改組した形で、同年二月十一日(大日本帝国憲法公布と同時)に、創刊された。

『日本』は、以後大正十三(一九一五)年まで続いて発行されたが、この間羯南は、明治三九(一九○六)年六月に、病気のため、伊藤欽亮に同紙を譲り渡すまで、約十七年間にわたって、主筆兼、社長として社説の大部分を執筆し続けている。

 

尚、『日本』社説の中には、他者の署名が記されているものも混入しており、(例えば、記者・福本日南と思われる「平蔵」の署名のあるもの等)それらは明らかに、羯南の著作ではない、と判明している。

その他に無記名の社説があり、それらも羯南以外の人物の著作である可能性が大きいが、その場合は少なくとも羯南が目を通し、『日本』への掲載を認めたもの、と判断し、必要があれば参照することとした。

 

 

(三)羯南の明治ナショナリズム「国民主義」

 

羯南の唱えた「国民主義」について、その定義と解釈については、既にいくつかの研究がなされているが、大筋において『日本』創刊の辞にあるように「一旦亡失せる国民精神を回復し、且つ之を登用せんことを」(註一)目的としたものであり、「国民の内に、権利及び幸福の偏傾なからしめる」(註二)ような国民的政治を望むものであったということが推察される。

羯南は「内に於ては国の統一を、外に対しては国民の特立を求める」(註三)思想を、ここに自ら「国民主義」と名付けたのである。

 

具体例を挙げよう。

明治二六、七年の「条約励行問題」と二八、九年の「責任問題」論争においても、この基本姿勢は貫かれていた。

例えば、条約改正案の問題に関して、羯南は、「条約励行論」を支持したが、これは譲歩の多い不完全な改正では日本の独立を諸外国に承認させたことにはならない。と、判断した為である。

日本の国権を諸外国に認識させ、尚且つ条約改正を実現する為には、外人が自発的に改正を望むようにしむけることが得策であり、現行条約を在日外人に励行させることによって、これが可能になると考えたのである。

 

「責任問題論争」についても同様で、「外に対して国民の特立(独立)を求める」(註三)「国民主義」を独立国家の立場を守りきれず遼東半島を割譲してしまった政府に対してその責任を追及する、という形で実行していた。

 

このように羯南の論説を追う形で確認してみると、如何に「国民主義」と言われるものが、いわゆる戦後に言う「ウルトラナショナリズム(超国家主義)」とかけ離れたものであったかが、わかるだろう。

羯南の言う「国民的政治」(註四)の為の統一とは、「凡そ本来に於いて国民全体に属すべき者は必ず之を国民的にするの謂」(註五)を意味したものであって、天皇は勿論、藩閥による上からの国民統一という思想とは、逆の立場に位置するものであった。

羯南の「国民主義」は「明治のナショナリズム」を代表する存在のひとつではあったが、決して日露戦争以降の特に昭和初期における軍国主義、国家主義などと呼称される帝国主義的な侵略を肯定する思想ではなかった。

羯南の言う国民とは、「君主と人民と相共同せる勢力、即ち国民勢力(ナショナルフォルス)」(註六)を指しており、天皇と国民が一致協力する形態を理想としていたのである。

「統一国民は、能く貴族を容れ、又賤民を容れ、国家の鞏筆と個人の伸長とを折衷すればなり」(註七)という羯南の言葉は、彼の考えていたナショナリズムの健全性を示唆している。

 

即ち羯南は、国民と国家の関係を伸縮自在で現実に則した対応のできるものであるべきと考え、両者の「並列」を考えていたのである。

例えば、「文明の政道は必ずまず各人能力の発達を謀り、その発達によりて以て、国家威力の伸張を謀るにあり」(註八)「文明の目的は富力の増進にあらずして、徳義人情の啓発にあること」(註九)「文明政治の本旨は、単に国家の威厳強固を張るのみにあらずして、又、社会各人の幸福安寧を保護するにあること」(註十)といった発言の中にも、羯南の「個人」に対する考え方は窺える。

 

以上のように羯南の論には、常に「国家と個人」「自由と平等」等、二つの事柄におけるバランス感覚が存在する、という特色があった。

そしてこのバランス感覚こそが、羯南を自国至上主義ではなく、国民的個性の保存と発達の二面性を併有した「国民主義」者たらしめたのである。

やや理想主義の色合いはあるものの、国民的個性の確立と同時に、さらに発展させて、世界的な共存を求めたのが彼の「国民主義」であったと言えよう。

 

 

(四)陸羯南とは何者であったのか

 

「羯南はナショナリストである」とは単純に割り切れぬように、「羯南は思想家である」とは断言し難い。

彼はいくつかの本も出版しているが、それは新聞社説を何回分かまとめた総集編である場合が多く、又、彼の仕事のほとんどは、新聞作りにあった。

同時代人として羯南を見た時、やはり「陸羯南は新聞人である」という表現が最も的を得ていると思われる。

彼自身もまた、新聞記者であることに大いに良い意味でのプライドを持って、仕事をこなしていた。

例えば、彼は創刊において、『日本』を客観的な立場から、当時の新聞界の状況の中、以下のように位置づけている。

「新聞紙たるものは政権を争うの機関にあらざれば、即ち私利を射るの商品たり。期間を以って自ら任ずるのは、党義に偏するの謗りを免れ難く、商品を以って自ら居るものは、或いは流俗を追うの嘲を招く。今の世に当たり新聞紙たるものの位置亦た困難ならずや。(中略)我が「日本」は固より現今の政党に関係あるにあらず。然れども亦た商品を以って自ら甘ずるものにもあらず。」(註十一)

この「日本」創刊の辞の理念は第一章の論争、即ち、日清戦争以前の最大の問題、条約改正論争においても、又戦後の三国干渉による遼東半島還付問題においても貫かれた。

こう言った「日本」独自の新聞理念・編集方針の一貫性は、例えば同時期の「国民新聞」が、日清戦争前後に転向したことと対比させると、より一層評価できるものである。

 

しかし、新聞界の流れが、政論ジャーナリズム時代を離れ、正確、迅速な報道を中心とした商業ジャーナリズム時代へと移ってゆくと、「日本」のようなじっくりと社論を主張してゆくタイプの新聞は、そのテンポについてゆけず、取り残されてしまったのである。

当時の風潮を嘆き、以下のような記述が残っている。

「昔の新聞は記者の知恵、識見、天才を売ったものであったが、今は黄金の力で造った広告、煽動、挑発、誘惑で売るようになった。(中略)新聞記者は天下を指導する記者先生に非ずして金で買われた傭人になり下がった。新聞を読むものも、新聞を造るものも記者は唯だ報知を集めて報知を書く機械に過ぎないと思っている」(註十二)

 

様々な環境の変化によって新聞「日本」は衰えたが、皮肉なことに羯南が「新聞記者論」で唱えていた「不偏不党」の精神だけは新聞界に受け継がれていった。ある意味では、現代における新聞のあり方の原点とも言うべき素地が、「日本」には存在していたのである。

現代の新聞に与えた影響を考えるとき、新聞記者、政論記者としての羯南は、もっと評価されるべき人物であるということが出来よう。

 

「陸羯南は思想家である」という認識がある。これは、彼が「ナショナリストである」という認識から派生したものと考えられる。

だが、羯南の著述してきたものを、主に新聞「日本」の論説を追う、という形で見る時、実はこの二つの認識が、どちらも実に曖昧で、誤解の多いものであることが判る。

その面では陸羯南は、昭和初期の超国家主義(ウルトラナショナリズム)のあおりを受けて、戦後に正当な評価を受けられなくなってしまった人物の一人、ということが出来る。(実際、陸羯南は超国家主義を批判する立場をとっていた)

と同時に、残された数多くの「日本」社説を読むと、羯南に「思想家」というひとつのレッテルを貼ってしまうことが、非常に危険な行為である、ということがよくわかる。

 

羯南は「新聞記者」の他にも「経済評論家」「教育論者」「歴史家」として多様な可能性を秘めた人物であった。

教育については、早くから文部省による国定教科書反対の論を唱え、また女子教育に関しても幾つかの著述が残されている。

加えて、羯南の文学的見識についても、漱石の「パリ通信」を「日本」に載せ、正岡子規のために第一面を割いたことを考え合わせれば、無視することは出来ない。

羯南の人柄は又、同時代人に愛されていた。

「日本」を支持し、羯南を敬愛する読者の会「日本青年会」(思想団体ではない)の存在や、「陸羯南全集十巻」に収められた羯南をめぐる人々の著述がそれを強く物語っている。

記者以外の陸羯南像についても、その可能性を追うことは意義があるだろう。

 

 

(五)終りに

 

「もしこの時代に陸羯南(くがかつなん)の新聞『日本』があれば…」

第二次世界大戦期、新聞報道が軍部に屈してしまい、国民に真実を報じ得なかったことを嘆いて、『新聞の歴史』の中にはこんな言葉が記されている。

現代日本の報道・マスコミのあり方において、政治権力との距離の置き方を考える時、明治期ジャーナリスト・陸羯南(くがかつなん)の編集方針や基本姿勢に学ぶところは大きい。

 

混迷の現代において、日本古来からの文化のあり方、行く末を思う時、決して国家権力と結びつくことのなかった、羯南の純粋な「国民主義」についてその意味と重要性を考え直さずにはいられない。

内に国民的統一を、外に国家の独立を求める「国民主義」的姿勢は、現代にも通じて、評価されるべきだろう。

 

 

脚注

(一)『日本』明治二七年二月二日付け

(二)『日本』明治二二年二月十一日付け

(三)『日本』明治三十年二月十一日付け

(四)『近時政論考』附録「近時憲法考」明治二四年刊

(五)右に同じ

(六)『日本』明治二三年二月二四日付け

(七)註四に同じ

(八)註四に同じ

(九)『東京電報』明治二一年八月一日付け

(十)右に同じ

(十一)註二に同じ

(十二)『国民雑誌』「東京新聞の内景」二巻四号 明治四四年四月刊

 

参考文献

「陸羯南全集」第一〜十巻 みすず書房 西岡長寿・植手通有編 昭和四三年〜六十年刊

「明治文化史料叢書13・新聞篇」同刊行会編 風間書房 昭和三五年刊

「伊藤博文関係文書」第一巻 伊藤博文研究会編 塙書房 昭和四八年 

「近衛篤磨日記」全六巻 同刊行会編 鹿児島研究所出版会

「原敬日記」一〜三巻 福原出版

「日本人」 芳賀登 日本人刊行会編 日本図書センター 昭和五九年刊

「羯南詩通訳」高松亨明 津軽書房 昭和五六年刊

「羯南と蘇峰」川辺真蔵 三省堂 昭和十八年刊

「春汀全集 二」―三新聞記者― 鳥谷部春汀 博文館 明治四二年刊 

「日本の名著 三七」 ―陸羯南と三宅雪嶺― 鹿野政直編 中央公論者 昭和四七年刊

「日本新聞史」山本文雄 国際出版 昭和二三年刊

「日本新聞発達史」山本文雄 伊藤書店 昭和十九年刊

 

論文

「陸羯南の外政論」山口一之 駒沢史学 二二、二三、二七、二八号

「陸羯南の外政論」遠山茂樹 横浜市大論叢 第二十四集 二、三号

「近代日本と陸羯南」丸山真男 みすず一一二号 みすず書房

「政教社における組織とイデオロギー」塚本三夫 東京大学新聞研究所紀要 十七

「近衛篤磨と明治三十年代の対外硬派」坂井雄吉 国家学会雑誌 八三巻三、四号

「日本における近代保守主義の成立とその特質」米原謙 阪大法学 一○四

「日本主義時代の国史への省察」水野主計 歴史教育 十八―一

「第一次松方内閣期の新聞操縦問題」佐々木隆 東京大学新聞研究所紀要 三一

「明治二十年代のナショナリズム」平岡敏夫 国文学言語と文芸 十一―二

「明治期のナショナリズム研究」小寺正一 京都大学紀要 四六、四九

「正岡子規とナショナリズム」中野一夫 文学第 五二号 岩波書店 

「正岡子規とナショナリズム」中野一夫 跡見学園国語科紀要 二十―二二