会津城下でも同じだが、すべては官軍の取得物なので、分捕りは正当という実に勝手な解釈だった。中間小者、人足は自分で分捕り品を販売して、収入を得るべしというのだから、官軍とは名ばかり、夜盗の集団に等しいものだった。

同じ日記の九月一日には、

「請戸(うけど)の鈴木屋市十郎の持船延命丸が、中ノ作で官軍に分捕られ三春まで行って貰い下げを受けた。同じ請戸の熊川平助の持船慈眼丸は、中ノ作で村の管理になってしまった。これらを取り戻すために、延命丸の方は二百両もかかりそうだし、慈眼丸はお上の方へ百両、村方へ三百両出さねばならなかった」

とあった。これもひどい話だった。

官軍に徴発された馬は雨覆もなく、野外につながれたままだったので数十疋も死んだ。


また馬の飼料として近在の青豆や、野菜を取ったので、野菜が一切なくなるなど農民は、断腸の思いだった。

酒屋の従業員は皆、官軍の焚出しに使われ、酒造りが出来なくなった。

 治安の悪化もおびただしいものがあり、強盗が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振舞いもあった。

 女性も徴発され、給仕役に後家(ごけ)が召し出された。

これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽(よとぎ)の相手だった。一般兵のために小高町、浪江町、鹿島町などの宿には遊女を置くことが求められた。

 病院看護人にも大勢の女性が動員された。

 相馬藩はじっと耐えた。

官軍の心証を悪くしては、領地もすべて取り上げられるかも知れなかった。

絶対服従の態度を見せ、この領地を相馬藩に安堵してもらうことが大事だった。しかし耐えることにも限度があった。

 仙台藩が抵抗すればするほど相馬藩の人的、財政的負担が増えて行く。この上は一日も早く戦争を終結させる事だった。

相馬藩は仙台藩に対して、恭順を求める密使を派遣した。

窮余(きゅうよ)の一策であった。



 佐藤勘兵衛の手紙



 八月二十七日の夕刻である。

旗巻峠で官軍と戦う仙台藩大隊長佐藤宮内(くない)の元に一通の手紙が届いた。持参したのは、近在の農民だった。見ると、それは相馬藩家老佐藤勘兵衛(さとうかんべえ)から宮内に宛てた密書だった。

日付は、八月二十四日となっており、この男は戦場をさまよい歩き、やっとたどり着いたものと思われた。

 

いまだ拝顔(はいがん)を得ず候えども一筆啓上(いっぴつけいじょう)致し候。

 

手紙はこのような書き出しで始まり、小斎(こさい)領主の佐藤宮内と相馬の佐藤勘兵衛は、三百年前にさかのぼると、親戚の間柄にあること、大軍に攻められて、相馬が痛恨(つうこん)、涙をのんで軍門に降ったところ、寛大の御仁徳をもって罪を許されたことを述べ、ここは天下のため、万民救済(ばんみんきゅうさい)のため、仙台藩に降伏を勧めるとしたためてあった。

 佐藤宮内の先祖は、相馬家に仕えた時期があった。相馬の佐藤勘兵衛と宮内は、たしかに遠い親戚であった。

「降伏だと」

 宮内の口から思わず怒声(どせい)がもれた。寛大な御仁徳などあり得るのか。信じることができなかった。なおも読み続けると、

「御謝罪の節、御願い立てにもご座候わば、及ばずながら尽力致し、御家名御相続だけの儀は、周旋(しゅうせん)仕るべきと存じ奉り候」

 と結んでおり、仙台藩の寛典のために相馬藩が努力するとしたためてあった。

 仙台藩の中では主戦派の宮内である。

盗人(ぬすっと)たけだけしい、とはこのことかもしれぬが、よく読めば、含蓄(がんちく)のある文面でもあった。勘兵衛の善意が文面に漂っており、破り捨てるには惜しい手紙だった。

宮内と勘兵衛の会談があったかどうかは分からない。しかし、宮内の元には勘兵衛の真意を伝える情報も入った。それは相馬藩の捕虜や、近在の農民からはいる相馬領内の苦境だった。

「官軍が正義の軍隊とは、まったく偽りで、物は奪われ、女は犯され、人は殺され、領民は塗炭の苦しみにあえいでおる」

 というものであった。

同時に官軍自体にも大きな悩みを抱えているというのだった。寄せ集めの兵は無頼(ぶらい)の徒と化し、略奪、暴行、歯止めが効かなくなっていた。このような戦を続けて行けば、この国はどうなってしまうかという危機意識もあった。

「ううむ」

宮内は仙台城に向かった。



仙台藩恭順



 仙台の城下は騒擾(そうじょう)の渦であった。

榎本艦隊が仙台湾に入港し、榎本武揚や大鳥圭介(おおとりけいすけ、)土方歳三(ひじかたとしぞうら)が登城して、徹底抗戦を呼びかけた事で、主戦派の松本要人(かなめ)や遠藤主税(ちから)、石母田但馬(いしもだたじま)、若生文十郎らは好機到来と張り切れば、一門の亘理領主伊達藤五郎(だてとうごろう)や角田領主石川大和(やまと)、水沢領主伊達邦寧らは恭順に傾き、その部下たちが、ああだこうだと、いまにもつかみかからんばかりの言い合いをしていた。

商人の多くはもう負けたと思っているようで、避難を始め、決戦を叫ぶ人々も家族を領地に帰し、半分、逃げ腰だった。

これでは勝てぬと宮内は思った。

 断固、戦うという人もいたことはいたが、その多くは実際の戦争を知らない人々だった。白河で最後まで戦った宮内は、戦争の無残さを誰よりも感じた人間だった。

戦争は農民にも苦労を強いた。人夫に狩り出され、田畑を荒らされ、塗炭の苦しみにあえいでおり、このまま放置すれば一揆(いっき)を起こし、暴徒と化すことだってあり得た。 

宮内は相馬藩家老佐藤勘兵衛の言うとおり恭順の時期と判断した。宮内はこのことを伊達家一門である伊達藤五郎に相談した。

「そちの言うとおりだ」

藤五郎はうなずき、仙台藩も急速に恭順に傾いていった。しかし仙台藩は何分にも大藩であり、各領主も一個の大名ぐらいの力はあるので、恭順の相談も遅々として進まず、九月中旬になって、ようやく降伏に決した。

九月十五日、相馬藩が斡旋した形で、伊達家代表が中村城を訪ね四条総督に降伏謝罪し、九月二十日、官軍が仙台に向かって進軍し、十月一日には四条総督も中村を進発した。



本領安堵



相馬藩は仙台藩を恭順に導いた功績もあって、城地は相馬藩主相馬季胤に預けられ、十月十三日、次の達しがあった。



奥羽諸藩官軍に抗し候折柄(おりから)大藩に凌迫(りょうはく)され、やむをえず一旦、賊徒に与(くみし)候得ども、王師封境に臨み、速やかに降伏帰順、官軍を迎え、仙賊を掃上壌(そうじょう)候段、聞こし召され、出格の御仁恤(ごじんじゅつ)をもって城地所領、これまで通り下置(くだしおかれ)候条、爾後)(じご)、天裁(てんさい)の厚を奉戴(ほうたい)し、闔藩王事(こうはんおうじ)に勤労相励むべき旨、御沙汰候事

  十月



相馬の領民をあげて待望の本領安堵(ほんりょうあんど)だった。

二ケ月余の隠忍自重(いんにんじちょう)が報いられたのだった。

奥羽各藩は減知や国替の処分が行われたが、相馬藩がこれを免れたのは、商人たちがこぞって献金したこともあった。

その金額は二万両を超えた。その結果、相馬商人は一文なしになり、町は寂(さび)れ、やがて相馬地方の中心を隣の原町に奪われることになる。

 戦争の犠牲は大きかった。

相馬藩はやむを得ない降伏であり、裏切りとは言いにくいものだった。

 会津人もこの事を認め、『会津戊辰戦史』で、

「相馬の降伏は、攻守同盟の精神に背いて、各藩兵が兵を引き、相馬を孤立させたことによる。三春の例とは異なる」と言外に仙台藩を批判した。