相馬は現在の福島県の浜通りの最北部、宮城県との境に位置し、伝統行事の相馬野馬追いで知られる城下町である。
平は浜通りの南、茨城県に近い。現在のいわき市である。
平城は井伊直弼(いいなおすけ)横死後、幕政を担った安藤信正(あんどうのぶまさ)の居城である。平も列藩同盟に加盟し、安藤信正自らが指揮を執っていた。

平には仙台、相馬藩も援軍を送り、三千の兵で戦ったが、榴弾(りゅうだん)が雨のように撃ち込まれ、防ぐ手立てはなく、圧倒的な火力の差で敗れてしまった。
平が落ちれば、次は相馬である。
相馬藩は中間地点の浪江(なみえ)に防衛線を引き、一千の藩兵で抗戦したが、頼みの仙台兵がどんどん国境に引き上げ、防戦が不可能だった。

人夫も逃げ出し、食糧、弾薬の供給も困難になってきた。完全な負け戦である。藩内の恭順派が台頭し、浪江 に進駐した津藩の隊長に接触し、帰順降伏の交渉を開始した。交渉に当たったのは富田久助、のち相馬の営農を指導し、米作りに成功する富田高慶(こうけい)である。薩長軍も渡りに船である。浪江で降伏交渉が成立した。
薩長軍の先鋒となって仙台攻撃に向かうという条件付きだった。

 

 

おっかあ、かゆい

 浪江の農民治兵衛(じへえ)三十五歳は、稀有(けう)な体験の持ち主だった。

その体験を後世に伝えていた。
治兵衛は体格隆々、草相撲の大関を張る力持ちだった。相馬藩に徴用され、輜重方の馬係として戦争に加わった。

七月二十九日の浪江戦争のときだった。

折から大雨だった。こちらの火縄銃は雨にぬれて発火しないのに、薩長軍は高瀬川の水につかっていても撃って来た。大砲の玉は見えるのだが、あわてて逃げるので、なかには当たる奴もいた。
相馬の兵隊が大勢にわかに現れ、これは勝ったと思った。ところがひとたまりもなく負けた。度胸がないのに治兵衛は驚いた。
逃げるとなるとわれ先で、侍も百姓も変わりはなかった。
相馬の兵隊が皆、帰ってしまったので、治兵衛は勝手に家に帰った。
家族は皆、山に逃げ、家には誰もいなかった。山に入って家族を探し、家に戻った。そこへ薩長の兵隊がやって来た。それを見た女房は七つになる娘の手を引き、二つの息子を背負って、あわてて前の畑に隠れた。すると息子が蚊に刺され、

「おっかあ、かゆい、かゆい」

 と叫んだ。

「困った」

 と、治兵衛は青ざめた。

妻と子は見つかってしまった。治兵衛はどうなるか、気が気でなかった。すると兵隊は、

「百姓には構わない。隠れることはない」

 と言った。治兵衛は安心し、「戦争はどうなりましか」と聞いた。

「相馬は降参した、次は仙台だ。お前は、いい体(からだ)してるな。官軍を手伝え」

 と言われ、今度は敵方に徴用されてしまった。

 それからしばらくして仙台も降参し、やっと家に帰ることが出来た。しかし、領地も人民もすべて薩長のものとなり、「官軍」という言葉の重みに人々は打ちひしがれた。

 

降伏とは何か

相馬藩は裏切ったわけではなかった。
どうにもならなくなって降参した。
それからが実は地獄だった。
相馬藩は、何から何までむしりとられた。
米はもちろん馬も牛もなくなるまで徴発された。これが「官軍という名の薩長軍の本質」かと、相馬の人々は降伏したことを後悔した。しかし、すべてはあとの祭りだった。
降伏とは一体、何か。それは土地、人民すべてを占領軍に差し出すことだった。
占領とは何か。『相馬市史』に詳細な記述がある
藩主相馬季胤(としたね)はただの人に転落し、長松寺に入って、ひたすら謹慎し、相馬城には総督四条隆謌(しじょうたかうた)が入り、占領軍総司令官となった。
三ノ丸は官軍の野戦病院となり、重臣たちの住まいは太政官の役所に没収された。天下がひっくり返ったのである。
官軍と呼ぶことも強制された。官軍とは天皇の軍隊、正義の軍隊という事だった。
仙台攻撃のために八月にはいると、二千人程の官軍兵が繰り込んで来た。もっとも多いときには五千余人に達した。
長州の毛利、筑前の黒田、大和郡山の柳沢、芸州広島の浅野、伊勢の藤堂、常州笠間の牧野、熊本の細川、因州鳥取の池田、筑後久留米の有馬ら各藩の軍勢だった。
相馬藩には以下の通達が行われた。

 

一、相馬軍は各藩に配属され、常に先頭に立って道案内をする。

二、領地の南半分即ち原町以南は官軍の直轄地とする。そこにある蔵米その他は、封印されて相馬藩の自由にはならない。


 三、官軍の糧食を引き受け、その他一切の要求に応じる。

 

 相馬の人々は官軍に失望した。薩長は官軍にあらず、官賊だと一貫して主張してきた会津藩の言う通りだと思った。しかし、歴史の歯車はもう逆戻りは出来ない。

相馬藩主従は悔し涙を流した。
仙台藩が降伏し、彼らが相馬を去る約二か月余、官軍は中村城下に駐屯していた。町内の民家、士族屋敷、一部は在郷の農家にまではみ出して宿営した。 

その経費は相馬の負担で、戦争のために使った兵士の食糧は、米、雑穀あわせて一万三千三百八十九石、うち米は七千七百三十六石に及んでいた。

これは官軍の八月七日から十月一日まで五十四日間の食糧で、延べ百十六万八十八人、一日一人白米六合の割合だった。

このほか相馬藩は四月十五日から十月一日までに延べ三十万二千七百二十七人を動員し、三千六百五十五石の米を消費した。飯米の備蓄は底をついた。

戦争は膨大な経費がかかるものだった。

人足は官軍、相馬軍合わせて約十五万七千七百人、馬七万千八百九十一疋を動員した。一日平均三千人、馬千三百疋だった。

 

夜盗の集団

 

相馬藩に「吉田屋源兵衛覚日記」という優れた記録がある。

安政三年(一八五六)から明治十一年(一八七八)までの相馬の御用商人吉田屋鈴木庄右衛門の手代の日記である。以前、買い求めていたので、今回、ひもといてみた。実にさまざまなことが描かれている。

 

 八月十四日

官軍方の分捕り品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。最も後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買いもどされる。

 

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